負の世界遺産スタリモスト
2019.06.27 Mostar, Bosnia and Herzegovina
こんにちは🌞番外編が続きましたが、本編に戻ります!ボスニアヘルツェゴビナ編で、モスタルの橋を思い出してください(^^)
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モスタル最大の観光名所であるスタリモスト(古い橋)。実は、負の世界遺産なんです。
自然いっぱいの可愛い街で、とてもそのようには見えません。
古い橋からみた景色です。このネトレヴァ川から東側はイスラム系地区、西側がクロアチア系地区。
古い橋はユーゴスラビア紛争のさなか、クロアチア人勢力により1993年に破壊されています。ただ、東のイスラム系と西のクロアチア系の単純な対立では全く無いのです。背景は物凄く複雑です。
モスタルは、大国に翻弄されながらあらゆる壮絶な歴史を乗り越えてきました。
中世はローマ帝国の一部であり、15世紀頃オスマン帝国の一部となり、第一次世界大戦頃はオーストリア・ハンガリー帝国の支配下となります。
そして1939年にはユーゴスラビア王国となり、第二次世界大戦ではナチスの傀儡政権であるクロアチア独立国の一部となります。
第二次世界大戦後はユーゴスラビア社会主義連邦の一部となり、ユーゴスラビア紛争を経て現在のボスニアヘルツェゴビナとなりました。
これでもかなり省略しています。
スタリモストが破壊されたのは、セルビアでもお伝えしたユーゴスラビア紛争の中で起きた、ボスニアヘルツェゴビナ紛争の最中でした。
パネルは、博物館のものです。
1991年、クロアチアの独立宣言から始まったユーゴスラビア連邦解体の流れのなか、モスタル含むボスニアに住んでいたボスニャク人とクロアチア人がボスニア独立を目指しました。しかし、同じエリアに住むセルビア人はこれに反対し対立します。
ボスニア政府はボスニャク人とクロアチア人を支援し、住民投票をボイコットしたセルビア人を無視して独立を宣言、ECに独立を認められます。
しかし紛争ではユーゴスラビア政府に支援されるセルビア人が優勢でした。同じ立場であるはずのボスニャク人とクロアチア人もお互い協力体制とはいえず、しばらくセルビア優勢が続きます。
1992年、どういうわけかセルビア人とクロアチア人の間でボスニアの土地分割交渉が行われ、それからはクロアチア人とボスニャク人の対立します。
両者の対立は深まり、モスタルでの戦闘が激化。1993年11月9日、クロアチア人勢力によりスタリモストが破壊されました。その後もボスニャク人はどんどん追い込まれ、大量殺戮にあいます。
1994年、セルビアの勢力を弱めたいアメリカにより両者の和解が取り持たれ、再び同盟を結びます。
その後はユーゴ政府とセルビア勢力vs NATO軍となっていき、セルビア編でお伝えした、ナターシャが経験したコソボ紛争へ繋がっていくのです。
私たちは、ボスニア紛争時の悲劇を伝える博物館を訪れました。
紛争中の写真や映像、犠牲者の遺物などが展示されていました。
こちらは、収容所の様子をあらわしたジオラマです。
ポーランドのアウシュビッツ強制収容所にも行きましたが、ナチスのやり方と同じです。クロアチア独立国がナチスの傀儡政権だった影響でしょう。あたたかい場所も無く水もろくに飲めない過酷な環境で一日中労働させられ、暴力を振るわれ、いつ殺されるかもわからない。ジオラマのように、毎日たくさんの人が銃殺される。
第二次世界大戦時ではありません。1993年のことです。信じられない。
綺麗なモスタルの街ですが、観光の中心地ひとつ通りを渡るだけで、当時の戦争の傷跡が生々しく残っていました。
壁にはたくさんの銃弾の跡。
大通りに面した建物ですらどれもこれも崩れ落ちたまま。
大きな公園へ続く綺麗な通り。
通り沿いの建物は、やはり崩れていました。
子ども達が遊んでいたんだな。怖かっただろうな。本当に悲しくなります。
中心地でも、よくよく見ると崩れた跡、焼け跡、補修された跡があることがわかります。
悲しいことがなかったかのように、景色はこんなに穏やかです。
終戦後、ユネスコの支援を受けたトルコの企業により古い橋は2004年に再建されました。そして2005年、負の遺産として「モスタル旧市街の古い橋の地区」の名で世界遺産に登録されました。
今では、他民族の共生と和解の象徴として人々の心を繋いでいます。
もう二度と悲しい歴史を繰り返さず、いつまでも美しい街であってほしいです。